ingakouryuu’s blog

心象スケッチ

今があること②

二十代半ば、長く働けそうな仕事を見つけると、仕事が定着した兄と夜間中学に通う母と老犬と愛猫を残して実家を出ることにした。ごく自然にさもそれが当たり前のように出ていく。引っ越し当日、母はいつものところに座っていつものように煙草を吸っている。兄は仕事に出て家にはいない。口下手な母がくれた言葉は「二度と敷居を跨ぐな」だった。私は生きることの辛さと喜びがその一言に凝縮されているような冷たさの中に温かみのある言葉に感じた。

 

荷物は少ない。引っ越しした当日に片づけは終了する。部屋は六畳のワンルームに備え付けの小さな冷蔵庫、電気コンロが一つ、エアコンまで付いている。実家にはエアコンが無かったため、ここで初めてエアコンのある部屋を手に入れる。独りで探して決断した最初の部屋だ。

 

引っ越しした当日、解体して持ってきたパイプベッドを組み立てて寝る準備を整える。ちなみにその後、四回も引っ越ししているが今でもこのパイプベッドで寝ている。

 

子どもの頃からあまり泣くことはなかった。卒業式で泣いている人を見ては、このタイミングかと思い泣こうとするが涙が出ない。どんな時に涙が出るのかまだわからなかった。しかし引っ越しした初日に見慣れない天井を見ながら眠りにつく直前、もの凄い解放感で何かわからないがずっと泣いていた。その涙がなんだったのか今でもわからない。そしてわからないということがこれまでの私を支えているようである。

 

わからないまま今があることだけがありがたい。