ingakouryuu’s blog

心象スケッチ

曼殊沙華⑤

 

長屋の片づけがひと段落すると次は共同生活をしていた借家にある彼女の荷物を母親だけが残って片づけることになった。彼女の実家は遠いため父親と弟は先に帰ったのだ。ポチさんから電話があり、一度だけ借家に様子を見に行くことにした。どうも母親と二人きりが辛いようだった。落ち着いてくると、なぜこんなことになったのかいろいろ考える。母親はポチさんがしっかりしていないのが悪いようなことを言っていたのだろう。私もそれには同感ではあるが、ポチさんだけの問題ではなく、彼女にはもっと根強い、生きることへの焦りが常にあったような気がした。

 

 

私はソファの端に座り、母親は足元にいた。ポチさんはうろうろしていた。今思えばどうしてこんな高い所からものが言えたのか、私も疑問がたくさんあったからなのか。母親には彼女が年間一千万の収入を考えていたこと、家の事業のためにお金を稼ぎたいとか、しなくてはならない何かをいつも抱えていたことを話した。母親は十分な送金をしてお金に困らないようにしていたのにという。家族が全員、長女に大きな期待を抱いていたのは話の端々でもわかった。しかし一番気になるのはポチさんがいるのに他の人と付き合いだしたことである。ポチさんが私の近くに座ることすら許さなかった彼女が、なぜ自分がされたら嫌だと思うことをしたのか。あまりにもお互いが近づきすぎてわからなくなってきたから少し離れようと考えたのかもしれないが、誰も喜ぶ人がいない。あまりこのことを言うと「やはり僕を責めるんだ!」とポチさんが取り乱す。

 

 

とりあえず、私は言いたいことをぶつけることができたが、それがよかったのかどうかはわからない。ただその後、ポチさんの人生が大きく変わることは予想できた。もともと激しい感情を持っていた彼は、おそらく彼女がいたから抑えられていたところもあったのだろう。研究者同士の集まりで一人大ケガを負わせている。亡くなった彼女も激しい感情を持っていてお互いが感情のコントロールができないため、加減ができない大喧嘩をしてポチさんの前歯が欠けることもあった。「僕はもうダメだ訴えられたら拘置所行きだ」とポチさんから電話があった時、私が「何か差し入れに行く」と言ったら「拘置所に入るような屈辱は耐えられないから自殺すると思う」と言う。私は「じゃあ、お供えに行く」と言ったら電話の向こうで笑いをこらえているのがわかり、ほっとした。

 

 

大学を卒業するタイミングで自然にポチさんとは離れていき会うこともなくなった。ポチさんは生活のほとんどを彼女に養ってもらっていたようで、彼女は「たくさん投資してるから研究の成果をあげてほしい」とポチさんにプレッシャーを与える。こんな辛い関係があるんだなと思った。彼が「ポチ」と呼んでほしいというのは、自分を卑下しているからだと初対面からわかったので、私は一度も彼をポチと呼んだことはない。「先に逝くことができて彼女がしたり顔でいるような気がする」と言っていたポチさん、彼女の自慢になるために研究を続けていた彼が今どうしているのか。

 

 

彼女の研究していたSMについて、私がある質問をしたことがある。彼女はSMという関係を通して人との自由な繋がり方を考えていたのだろう、何も決めつけがない人が来て「私はSMが何かを知りません。一緒に考えてくれませんか」と言って来る人がいたらどう思うかと、彼女はそれが一番欲しい言葉だと言っていた。彼女がSMを通して言いたかったことが今ならわかる気がする。

彼女の名は「坂井はまな」社会の根源的な問題を暴こうとした勇敢な人だった。

 

セクシュアリティの表象と身体 (ビジュアル文化シリーズ)