ingakouryuu’s blog

心象スケッチ

好きは愛を、愛は好きを

 

「好き」は欲求からくると思われる。例えば、めずらしい花を見つけて、あらゆる角度から観察して、どんな香りがするのか、葉っぱはどんな手触りなのか、確かめたくなるようなものだ。この確かめて記憶する行為をデッサンとしよう。その花の魅力をこれ以上描くところがないというところまで夢中で描く。描き終えると満足して、また次の対象物を探し始める。描いている最中でも、突然飛び込んできた複雑な動きをする別の対象物に目を奪われることもあるだろう。欲求はその時の心身の状態によってどんどん変化する。たくさん描いた絵の中でこの絵が一番好きというのは、とてもいい状態で描けているからだ。つまり、「好き」は心身の状態に密接した気持ちである。

 

ついでに「愛」についても考えてみる。「愛」は与えるというイメージがある。昔、ヘレンケラーの自伝でサリバン先生が愛について語っていた。愛は空にある雲のようなもので、触ることはできない。しかし雨となって大地に大いなる恵みをもたらしてくれる。それが「愛」だとヘレンに教えていた。この時、私はどういうことなのかまだ理解できていなかった。

 

 

『ヴィンランド•サガ』にて

クヌート王子は幼い頃から我が子のように可愛がってくれた一番の理解者ラグナルを亡くして途方にくれていた。「もう私を愛してくれるものはいなくなった」と言う王子に、神父はラグナルが王子にしてきたことは愛ではなく差別だと諭す。そして争いで倒れた死体を指して、これこそが愛そのものだと言い、彼はもう憎むことも奪うこともしない、この死体はこのまま打ち捨てられ、死肉を獣や虫に与える。死は人間を完成させるのだと言った。王子は神父の言葉から霧が晴れるように「愛」を理解していく。空、太陽、風、雪、木、山、これらが「愛」だったと。そしてその美しさに感動する。ここでようやく私もサリバン先生の言っていた「愛」を理解できた。

 

 

「愛」から生じて「好き」で自我を形成する。そして最後には「愛」にかえる。

 

 

クヌート王子が生きてる人間の魂の救済を考えて成長していく『ヴィンランド•サガ』は見ごたえがあった。